聞いた、見た、読んだ。

お気楽金融雇われ人の見聞録

学校英語は役に立たない?

4月から中学校に進むNは、いよいよ本格的に英語の授業が始まる。
学校からは、アルファベットや簡単な単語の書き取りの宿題とともに「基礎英語」を聞いておくように、という最初の敷居を多少低くしておくか、程度の指示が出ている。

早速、Nも基礎英語を聞き出して1ヶ月半ほど経つが、この時期の基礎英語は1年の総復習のフェイズに入っているので、聞いているNは多分内容をほとんど理解していないだろうなぁと思う。
それでも、番組のスキットに合わせておぼつかない発音で練習しているのは、なかなか初々しい光景ではある。
学校によっては、春休みから多くの宿題が出て、テストなんかも受けている学校もあるのかもしれないが、自分の中学入学前の状況から比較すれば、今のNの方が余程熱心に取組んでいるのが実際のところ。

猫型息子、犬型息子 by 母」で相方が書いていたように、Nは興味がないことは進んでやらないタイプなので、理解できない(はず)にもかかわらず、毎日放送を聞いているのは、彼なりに中学校生活や英語の学習に興味があるということなのだろう。
いずれつまずくこともあるだろうが、しばらくは彼のやりたいようにやらせてみるつもり。

そんな中、いつも読んでいる「My Life in MIT Sloan」というブログで「日本の中高の英語教育がマイナスにしかならない件について」「じゃあ中高の英語教育をどう変えるべきか考えてみる」というエントリーがアップされた。
英語教育には、みなさん一家言がおありのようで、コメント欄が場外乱闘も含めて大盛り上がりになっているのが実に興味深い。

私は英語教育の専門家でもなければ、仕事でも生活でも日常的に英語を使うような環境にもいないので、英語教育のあるべき論について語る言葉を持たないのだけれど、「じゃあ中高の英語教育をどう変えるべきか考えてみる」で指摘されている「日本語とは、大学院の専門教育ですら英語を必要としないような、成熟した優れた言語である」という指摘にはとても共感できる。

日本語は非常に成熟した言語だ。
大学院の社会学、経済学、物理学、化学などといった専門的な分野ですら、日本語で議論が可能なほど、専門的な概念すら、日本語が存在する。
結果として、英語が出来なくても、各分野でそこそこのレベルまで勉強することは可能だ。
良くも悪くも、この日本語の性質(特質)のおかげで、日本国内で仕事をする限り、「英語ができないとおまんまの食い上げ」という状況は極めて限定的である。
したがって、英語教育について考える上では、この日本語の特質と必要とされる英語のレベルをてんびんにかける必要があるのだろうなと思う。

なぜこう思うかというと、私の本業は金融界の中でもあまり一般的な分野ではないけれど、日本でのやり方と欧米でのやり方を常に外部から比較されて、いろいろ突かれるような業務なのだが、それでも最先端の情報がほぼリアルタイムに日本語で得られて、かつ、日本語で議論ができてしまうという現実があるから。
もちろん、海外の専門家と最先端の議論がしたければ英語は必須のスキルなのだが、そこまでのスキルが必要な人はごく一部。
私自身について言えば、必要に迫られて英語のペーパーを読む機会はあるけれど、英語で議論したり論文を書いたりしなければいけないことはほとんどない(だから日常的に英語を使うような環境にいないと思っている)。むしろ、英語のペーパーの内容を社内向けに日本語で説明する機会の方が多いので、先のエントリーでは否定的に扱われている「和訳」のスキルの方が必要だったりする。

私みたいな関わり方であれば、現在の英語教育もそんなに悪いものではないのだが…。

↓共感できるエントリーならポチッとお願いします。励みになります。
にほんブログ村 教育ブログ 中高一貫教育へ