聞いた、見た、読んだ。

お気楽金融雇われ人の見聞録

会社-(マイナス)1.0?

志まで雇われたいの?
会社は従業員に雇用契約以上のものを求めてはならないし、従業員もまた会社に雇用契約以上のものを求めるべきではない。
平たく言えば、体は売っても心は売らないのが従業員の心得であり、体は買っても心は買わないのが会社としての心得ということになる。
「会社」が心まで買うとどうなるか、我々はもう充分学んだのではないのか?企業不祥事というのはすべからくこれが原因となっているのではないか。(404 Blog Not Found 2006年4月5日)

「志を雇われる」という状態が今ひとつ腑に落ちないのですが、「会社の理念と自らの志を同じうする」とか「(従業員なのに)経営陣の目線で仕事をする」というようなことを指しているのでしょうか?であれば、それ自身は悪いことではないでしょう(会社側が従業員側のそういった意識に付けこもうとしていることは事実だとは思いますが)。

「会社0.0」というのがそういうものだとすれば、「志を雇われる」以前の会社、例えば「会社に(良)心を売る」ことの引き換えに出世が手に入る会社なんかもあるわけです。弾さんの眼からは同じような会社に見えるのかもしれませんが、こういう「(良)心を売らせようとする」会社と「志を雇う」会社の間には大きな違いがあって、社畜云々という表現はこういう会社にこそ相応しいと思うのですが、どう表現したらいいんでしょう?「会社-(マイナス)1.0」?

「会社-1.0」な会社には「会社に心を売る」ことの引き換えに「出世する(した)」という人が少なからずおり、こうした成功体験を積み重ねた人は、当然ながら部下に対しても同じように「会社に心を売る」ことを要求してきますし、そうした上司を見て自分から進んで心を売りたがる人も少なからずいるわけです。特に大企業になればなるほど、社員の数に比例してそういう人がどんどん増えるというのが実態でしょう。「会社-1.0」な価値観というのは相当な自己増殖力や同化圧力を持っているわけです。

弾さんが指摘する「体は売っても心は売らないのが従業員の心得であり、体は買っても心は買わないのが会社としての心得」というのは、まさに「会社-1.0」な会社にこそ当てはまるように思います。で、おそらく「会社-1.0」な会社は例外なくウェブの「こちら側の企業」ということになるのでしょう。