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お気楽金融雇われ人の見聞録

「国策捜査」という言葉への違和感

ホリエモンの逮捕にまつわる話、このところ「国策捜査」という言葉をあちらこちらのブログで見ますが、どうにも違和感を拭えません。

国策捜査」という言葉は「国家権力の意志が捜査に反映されている捜査」という文脈で使われているものがほとんどで、今回のライブドアの件では、ライブドア事件が社会や経済に与えるであろう影響の「小ささ」に対する検察の捜査の「大げささ」のギャップを埋めるために使われているようです。

でも、それって単に「国家の陰謀」を「国策捜査」と言い換えただけじゃないでしょうか?どうにも説得力を欠くように思います。

上の文脈で「国策捜査」という言葉を用いる場合、当然のように「国家権力」が「意志」を持っていることが前提とされているため、私などはあたかも首相官邸や国会議事堂、霞ヶ関あたりに「国家権力」という生き物がいて、一般国民を意のままに操ろうとしているようなイメージを抱いてしまうのですが、本当に「国家権力の意志」なんてものが存在するのでしょうか?

なぜそう思うかと言えば、官邸や霞ヶ関あたりの行政府は、事実かどうかはともかく、普段「官邸と省庁間の連絡が悪い」とか「局あって省なし、省あって国益なし」などと批判や揶揄の対象とされているわけですよね。そんな「どんくさい」官邸や霞ヶ関あたりが、こういう時だけ「国家権力」としての「意志」を持って一糸乱れぬ動きをするのだと言われても、私には「ふーん」としか言いようがないのですが……。