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お気楽金融雇われ人の見聞録

「ゼロトレランス」って当たり前のことでしょ

要は校則をしっかり決めて、校則違反はきちんと咎めるという「当たり前のこと」ですよね。

脱寛容指導「ゼロトレランス」 「日本流」手探り 文科省が検討開始
ゼロトレランスとは、治安や犯罪の論議でしばしば取り上げられる「ブロークンウインドーズ理論(割れ窓理論)」という概念を学校の秩序維持という観点から焼き直したものだ。
割れ窓理論によると、ビルや建物の1枚の窓ガラスが割れているのを放置すると、外部からその建物は「管理されていない」と認識されてしまう。その結果、割れ窓が次々と増え、ビルや建物全体が荒廃、地域全体の荒れにつながり、ついには無秩序に陥る。たった1枚の窓ガラスが割れた小さな出来事を見逃さないことが重要だという考えだ。
学校の秩序も同じで、遅刻や言葉遣い、マナー違反や怠惰な問題行動などを「他人に危害を加えたわけではない」などと見過ごしてしまえば、軽度の違反が起きるようになる。やがてそれは秩序の低下を招き、学校生活が安心して送れない、学習意欲が持てなくなり、重大な問題行動へとつながっていく。一見無害にみえる生徒のちょっとした問題行動もその場で注意することが必要だという考えだ。(Sankei Web 2006年1月9日)

私は、管理教育先進県として有名だった愛知県で中学・高校生活を送ったので、服装チェックや持ち物検査などは学校生活に当たり前のようにビルトインされて過ごしていました。検査で特に違反がなければ何もお咎めなし(当たり前)、違反があれば修正が求められ、違反が常態化すると生活指導の先生に呼ばれたり指導が厳しくなると、これってまさに「ゼロトレランス」の実践に他ならないわけですよね。

私自身は、学校にアジビラを持っていく使命感も、武器類を持っていく殺伐感も持ち合わせていなかったため、毎月の検査は面倒に感じこそすれ、さして疑問も持ちませんでしたが、そういう一般大多数に括られる身からすると「ゼロトレランス」という概念そのものは「当たり前のこと」としか感じません。むしろ、以前は出来ていた「当たり前のこと」を取り戻すのに「ゼロトレランス」などというといかにも大仰な概念を持ち出さざるを得ないあたりに、教育現場の苦悩が表れているなぁと涙を禁じえません。

直接の対象は記事にあるような「荒れた」学校の秩序回復なのでしょう。しかし本質的には校則程度のルールで「自由を奪われた」とか「人権が無視された」などと大騒ぎする一部の左巻きな方々に起因する「価値の相対化」という無秩序状態からの脱却を目標にしているのでしょう。今後左巻きの方々がどう巻き返しを図るか見物ですが、「プチ保守右派」ブログとしては、文部科学省の目論見を応援しますので、じゃんじゃん進めていただきたいと思います。