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お気楽金融雇われ人の見聞録

ぜひ専門家によるご評価をお願いいたしたく…

今日の日経新聞の教育面コラム「まなび再考」では、お茶の水女子大学の耳塚寛明教授がこの中間報告を受けてコメントを寄せていますが、あまりにあんまりな内容で目を疑ってしまいました。

内容は、先日文部科学省が発表した「義務教育に関する意識調査」に関するものです。

ご存知の通りこの調査では、「総合的な学習の時間」について小学生の約6割、中学生の5割弱、保護者の約7割が肯定的な評価をしているのに対し、教員で総合的学習の時間を肯定的に評価しているのは、小学校教員では約5割、中学校教員は約4割と、いずれも児童(生徒)・保護者より低い評価が出ています。

自分の身に照らしても、総合的な学習の時間に対する保護者の評価が高いのはわかります。一方、教員の評価が低いのは、端的に総合的な 学習の時間に圧迫されて主要教科に充てる時間が足りなくなっており、上級の学校(中学から高校、高校から大学)への受験に必要な範囲をさらい切れないことが原因であろうと理解しておりました。

これを裏付けるかのように、私が拝見した教員の方によるブログなどの意見は大体次の3点の意見に集約されていました。
「総合的学習の時間は準備に非常に時間がかかる」
「その割りに学習の成果をどう評価してよいのか明確でない」
「それよりは受験で必要な主要教科の学習に充てる時間を確保したい」

それが耳塚教授のコラムではこうなっています。
(意識調査の)結果は中央教育審議会の特別部会で、義務教育改革の参考資料とされる。しかし、どう参考にしたらよいのだろう。 顧客のニーズを把握する市場調査だとすれば、保護者の回答は天の声である。行政は子どもの教育権を保護者から委託されていると考えた場合でも、同じだ。子どもの学習権の観点から、子どもの反応を最優先する意見もありうる。 「教師=専門職論」の立場に立てば、今度は教員の評価こそが尊重に値する。医師の診断は高度な専門性ゆえに素人が口を挟む余地はない。同じように教育のプロである教員が、子どもの学習に有効ではないと判断するのであれば、そんな教育課程は続けるべきでない。
これは笑うところでしょうか?

教員が教育のプロであることを笑いたいのではありません。私だって「餅は餅屋」ということは理解していますが、この教員の判断の無謬性を信じて疑わないコメントは、どこから出てくるのでしょう。部外者の無責任な一言にだって一分の理がある場合もあるわけですから、プロの判断が常に絶対とは言い切れないと思うんですが…。
#いまどき「私の診断は高度に専門的だから、素人に口を挟む余地は無い」などという医師は少数派でしょうし、こんなピントはずれのたとえ話に取り上げられては医師も迷惑でしょう。

そもそも「教育のプロである教員」が総合的学習の時間が子どもの学習に有効ではないと判断する根拠は何なんでしょうか?

先の教員の方々の意見を乱暴に要約すれば「得体の知れない総合的学習の時間より受験教科の学習を優先したい」ということであり、結局は「より上位の学校(中学から見た高校、高校から見た大学)の入試に必要だから」ということだと思うのですが…。

私自身は、以前のエントリーでも書いたように総合的な学習の時間の削減には反対です。それは、たかだか10年ちょっとの社会人経験ではあっても「自ら課題を見つけ、問題を解決する能力」や「主体的に取り組む態度」の必要性を痛感したからに他なりません。

必要なのは天の声を聞く調査ではなく、総合的な学習の時間の有効性を、専門的に評価する作業である。天の声に委ねる意思決定は、ほとんど責任放棄に近い。
耳塚教授は教育学の「専門家」でいらっしゃるわけですから、こんな斜に構えたコメントを投げ捨てている暇があったら、ぜひ総合的な学習の時間の有効性を専門的にご評価戴きたいと思います。楽しみにお待ち申し上げておりますので、よろしくお願い申し上げます。

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総合学習の時間を削減するのはまだ早い(2005年01月19日)